2016年6月24日金曜日

【大学】「リメディアル(=やり直し)教育」は必要だ。

今の大学では、小中学校のやり直しをしているらしい。
「リメディアル(=やり直し)教育」と言うそうだ。

大学の小学校化が深刻…授業でbe動詞や単純な割り算、大学も定員割れ激増で必死

このリメディアルの是非が議論になっている。

(ひろし)はリメディアルは、賛成だ。

そもそも論になるが、「大学」とは何を学ぶところか?
という議論に還る。

元々の出発は、高校までの学問をさらに発展させ、専門的な内容を修めるのが元々の大学の使命だと思う。
しかし、明治時代や戦後の時期とは、今は明らかに変わっている。
何が変わったかというと、中学・高校時代にいい成績とは言えない人(偏差値が低い人)でさえ、大学に行きたいという人(ニーズ)が増加した、という点だ。

昔の固定観念からでは、「勉強もできない(偏差値が低い)のに、なんで大学に行くんだ・・・」という方も多いとは思う。しかし今の若者・その親は、入れる大学があるなら、社会人になる前に、行きたい・行かせたい、というニーズがかなり大きくなったということだ。

じゃあ、そのいわゆる偏差値が低い大学は、大学としての教育をしていないというかというと、そうでもないと思う。

実名を出すべきか出さざるべきか悩むとことだが、ここ福山でも、偏差値の低い大学(学部)がある。(ひろし)の知人も、その大学に進学したが、在学中は「『○○大学』“しか”入れなかった・・・」と自虐的に話していた。

しかしその彼も、卒業後は、一人前の社会人として活躍している。
他にも、(ひろし)が知っているその大学の卒業生は、みんな、社会ですばらしい活躍をしている。

そいういう人達(卒業生たち)を見ていると、福山にある「○○大学」は、随分とすばらしい教育をしていると思う。

元々、人間の評価を、“偏差値”という一つの物差しで測って、上下に並べることがナンセンスだということは、みんなうすうす知ってるはずだ。
やむを得ず、偏差値を利用する場面もあるだろうが、その場合でも、偏差値は人間を上下に並べる手段ではないということを念頭に利用しないと、本当の人間の評価が見えなくなってしまう。

福山にある「○○大学」のように、決して華々しい偏差値ではないが、卒業生が地域に根ざし、社会を支え、家庭を支えている姿をみると、自分の子どもも、希望するなら進学させてもいいと思う。

今の大学は、定員を確保するために、偏差値が低い高卒生を受け入れざるを得なくなっているのか。その偏差値の低い学生のために、リメディアルを実施していると言うことか。

それはそれで、ニーズがあるなら、それに応える教育を創造している大学も、すばらしいではないか。

さらには、“アクティブ・ラーニング”なども工夫されているようで、いいことだと思う。

もっともっと、偏差値だけに縛られない大学が出現してくれることを望む。もちろんそれには、大学の教員達の創意工夫や法令の修正も求められる。
どうしても“大学は専門教育”というなら、新たなニーズの学生(偏差値の低い学生)に、大学以外の勉強場所を提供すべきだ。

(ひろし)

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